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歴史を外からながめて見ると、なにかの自由を目指す、方向性をもつもののように見えるし、感じられてもくる。 もちろん、こうした願望は自分勝手な思い込みの偏見に過ぎない。なぜなら、歴史という概念自体、あるいは人間が歴史に求めるのは、自分自身の欲求や自己の正当化に基づくものだからである。もしも、このような欲求がなければ、だれも歴史を学ばないし、また、歴史という概念自体が成り立たないのである。 しかし、歴史を外から見てみると、調和とかバランスのようにも見えてくる。適者生存、生存闘争といったものが、それである。またそれを中から、そうやってバランスされてゆく細部の一部分だけを捉えて見ると、なにもかもが行き当りばったりの、偶然だけが支配する、まるで思いつきと気まぐれだけの世界のように思えてくる。 しかし、それらすべてを、歴史の前後関係と時間の流れの中でながめて見ると、やはりそれは必然としか言いようのないものとして思えてくる。それらを取り囲む、自然条件や社会状況、そしてその、制約や前提といったものが、そのような方向性を取る以外に無かったのだと思えてくるのである。イヤ、だからこそそれが、後々まで存続し得たのであって、残ることが出来たのである。そうした意味で歴史となり得たのである。 それ以外の方向性を取った者は、いつの間にか壊れるか消えて行って、失われ、忘れられたのである。現在を生きる私たちにとって、必要のないものとして忘れられたのである。だから、必然性とか指向性といったものは、それを見る者の都合によって解釈されてきたのである。 だから、バランスとか調和といったものが、それなのである。これが新たなシステムが存続し得るか、消滅するかの、必然性の基準になっているのである。このようなバランスと調和によって世界が維持され方向づけられているのである。生存競争と適者生存が、それである。そしてこれが自分のなかに元々からあった「指向性」のように思えて来るのである。本能や衝動、あるいは固有の特殊な自律性のように思えて来るのである。 |
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