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6、怪しい。



それは僕自身の精神の暗い闇の底なのである。自分のことなのに、それが何なのか自分でもサッパリわからないのである。にもかかわらず、それが事あるごとに、何のまえぶれもなしに出てくるのである。

まったく忌々しく、ずうずうしく、厚かましいのである。何かを暗示させるものとして、あるいは象徴、印象、符号として。実際にある現実のものの姿(すがた)を借りて執拗に映し出されてくるのである。

実際に見ている風景はまったく同じなのに、その意味するところが全然、違って見えるのである。色も姿もカタチも同じものなのに、それがまったく別のものに見えてくるのである。

それはつまり、空想や偏見、妄想のように聞こえるが、けっしてそうではない。断言できる。なぜなら、人間の視覚自体が偏見のかたまりだからである。それは始めから条件づけられ方向づけられているのである。

そのように見えるというのは、初めからそのようにしか見えないように、人間の感覚が出来ているということなのである。そしてこの感覚こそが何よりも怪しいのである。

「視覚」の見え方自体が、そもそもイカサマなのである。生物的映像、光学的映像、生理的映像、記憶的映像、そして意識の意図的映像というように。それだけをとってみても、やはり、同一のものが全く別のものとして、人間の目には見えているのである。これが現実の世界、生きた人間の世界なのである。

視覚も、ものであって、ものを通して見ているのであって、視覚器官というものの都合に影響されるのである。もちろん、それを印象のカタチとして象徴化する観念の働きも含めてそうなのである。


戻る。             続く。

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