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家父長制というのは、それが最もわかりやすいからである。自分たちが生まれて来たままの社会システムだからである。そこから何も変わらないし、だからまた、それを乱してはならないと思えてくるのである。ありのままの状態が最も自然なことのように思えてくるのである。そしてそれがまた、そこに生きる人々の自然な情緒となっているのである。だからそれを乱してはならないのである。 そしてそれが家族や血縁を超えて、全社会的規模で成り立たせようとすると、だれかもっとも偉い人を中心に上下関係が作り上げられる。それは、東アジア的な皇帝を意味するが、それを中心に上下関係が成立し、またそうしてのみ、家庭内における父長の権威が絶対的に保証される。心理的にも、社会的にも、また経済的にもまた、そうである。 東洋的な儒教精神は、稲作というコメの生産様式と密接に関係していると思われる。これはまた、社会・経済というのが耕作する土地と不可分の関係にあることと関連している。そしてそれがそのまま、社会の上下関係や倫理と道徳に反映されているのである。 父長は、外の皇帝に対しては絶対的な奴隷であると同時に、だからこそまた、家庭内においては絶対的な皇帝たり得るのである。こうした有無を言わせぬ上下関係こそが、東アジア社会の権力構造であり、また、その情緒的・心情的根拠となっている。 |