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9、破壊。



こうした社会では法律といえども、個人の内面から発するものにはならない。それは、みんなという儒教道徳の延長として強制され、個の破壊を通して社会を支配しているものなのである。

だから、論理的で理性的であるはずの法律というのが、実際はタテマエと飾りにすぎず、内実はいつもコネと談合、そして「みんな」という無意識の情緒が、社会を支配し、強制し続けている。どこにも「個人」というのが存在しないのである。自分たちという仲間の義理と人情が支配する世界なのである。

コピーとパクリ、ナリスマシだけで成り立つ世界である。他力本願である以上、そうならざるを得ないのである。まさにこれをみんなが願い、そして政府が誘導し続けてきたのである。数十年数百年に渡ってずっとそうであり続けたのである。それは日本の自然環境や風土、そしてその生存の仕方と密接に関係しているのである。処世術といってもよい。日本の社会に最も適合した生き方であり、人間関係なのである。

だからまた、それが自覚も意識もされることもなく、そのままずっと続くのである。文化や伝統のみならず、感じ方や情緒、思考パターンに至るまで、まるごと何もかもがそうなのである。だから、それが意識されるということが無いのである。

あまりにも当然の常識に誰も疑いをいだかないのである。もしもそれに疑惑をいだくとなると、この社会自体が成り立たなくなるのである。この社会が前提としてきたものが破壊されるのである。だから誰も疑ったりしないし、また疑うということ自体が出来ないのである。

個人というのが存在しない。肉体としては存在しても、精神としては存在しないのである。だから、義務も責任も、周りのみんなに対してであって、それが、自分自身に対してはどうなのかというのが、いつもアイマイでぼんやりしたままなのである。どこまで行っても自分というのが見つからないのである。


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