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8、みんなの願い。



しかし、よく考えて見ると、人間社会というのは、もともとそうなのかも知れない。人間が生きていること自体、なんらかの理由や意味が必要なのであって、それを自分で見つけることほど、つらくて苦しいことはないのである。

だから、ウソでも、空想でも、偽(いつわ)りでも、なんでもよいのである。それが自分の理由になりさえすれば、それでよいのである。たとえ見せかけの表面だけのものであっても、それでよいのである。

みんなと一緒にいて、みんなと同じであって、みんなもそうであると思えるようなものであれば、それでよいのである。なんでもよいのである。どうせそれがホントかウソか、正義か悪か、などということは誰にもわからないことなのだから。だから、みんなが良ければ、それが正しいのである。

暴力はシンプルである。だれに対しても公平であって、そしてわかりやすいのである。儒教道徳がそうである。シツケ(躾)と暴力は常にセットでやって来て、人民を矯正し、誘導し続けて来たのである。「目上の者」と「目下の者」、そしてみんなが望むものが、そうである。これが正義なのである。そしてまた、自分たちが「信じる」ことのすべてなのである。

内面は何ら問われることはない。むしろ、このような儒教世界では、自分自身の内面世界は問われてはならないのである。内面を無視し、押し殺し、破壊してこそ、儒教道徳というシツケと暴力によって、社会が成り立つ世界なのでである。


戻る。               続く。

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