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7、本人。



だが、このように極端に考える必要はない。要は、肉体の暴力に頼らなくて済む、他のもっと強力な強制力でもあれば、それでよいのである。もっとも重要な目的とするところは、自分のことを、自分で生きなくて済むようになれば、それでよいのであり、言い換えれば、「自分が他人様によって生かされている」状態である。

自分のすべての責任から逃げて、権利だけをわがものに出来れば、それでよいのである。自己意識の絶対的閉却、生き埋め、抹殺である。まさしく、こうしたことが現在日本の状況であって、こうした中からでは、けっして何も解決されない。解決すべき「本人」そのものが存在しないのだから、仕方がないのである。

自己意識が無いというのは、いまだ個人が成立せず、人格を持たないということである。もちろん法律上は形式的に完備されているが、その内容と実体といったものがぼんやりしている。なぜなら、それが個人の内面的な心情や確信から出発したものではないからである。

自分自身の良心から出発したものではなくて、あくまでも外からのシキタリやオキテとして強制されるものだからである。だから、形式的で外面的な、まやかしの飾りから抜け出ることが無いのである。その実体であり、その主体でもある「本人」が居ないのだから仕方がないことなのである。

だからまた、自己が存在せず、自分を省みることがないということから、だれも見ていないことについては、何をしてもよいということになる。法律に触れようと触れまいとに関係なく、バレなければ何をやっても良いということになる。

要するに、法律というのが自分自身の信条や良心の問題になるということがなく、ただ単に外面的な形式的なものになっているということである。自己の内面の問題ではなくて、表面的な世間体の問題に過ぎなくなっている。

だからまた、真の意味での苦しみになることもなく、また苦痛といったものがそこで完了し、途切れて切断されて終わってしまうのである。そしてまた、解決のための努力もこの時点で終わってしまう。


戻る。               続く。

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