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しかし、確かに「死」というのは、人間にとって恐ろしいことである。何よりも、その死の理由に関係なく、「死」は痛くて苦しい。それもホントに半端な痛さではない。しかし要するに、自分で納得がいくということなのである。これは、もはや仕方のないことなのだし、やむを得ないことで、自分としても精一杯がんばったし、それでもどうにもならないなら、仕方のないことではないか、ということなのである。 そして、ひとたびこういう考えを持つと、何もかもが自分でも納得できるものとなって、ガマンできるし、またガマン自体が苦にもならないようになる。むしろ、あきらめと自己了解で素直に自分を全う出来るし、無駄な抵抗もしなくなる。すべては、自分にとってなされるがままとなる。 さらに、こうした精神状態は、生理的にも情緒的にも安定したものとなって、本来の肉体的苦痛といったものを、極めて凌ぎやすいものにしてくれる。死がもたらす苦痛といったものを素直に受け入れることが出来るようになる。心情的ににも、また一部は生理的にも、感覚的にも自分にとって受け入れやすいものにしてくれる。 さらにまた、そうした肉体的苦痛といったものが、正義や道徳心といったもの、例えば自分の信ずる宗教のために命を捨てる「殉教」に結びつくと、なおさら軽減される。むしろ反対に心地よいものにも感じられてくる。 |