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5、幸福。



そしてまた、これよりもはるかに重要な意味を持つのが、この暴力といったものを、個人の内面世界で捉(とら)えた場合である。人間というのが暴力によって動かされる。暴力と命令と恐怖によって人間が支配される。

そしてこれがオキテとなるのである。しかしまた、そうだとすると、それは人間にとって非常に幸福なことなのである。人生の、生きることの悩みと苦しみから解放されるからである。

自分というのを否定して、最高存在の前に自分のすべてを投げ出したとなると、自分の精神そのものがなくなって、現実の痛みや苦しみといったものが、自分の身体に感じることがあっても、それが他人事のなってしまう。

たとえ自ら進んで死ぬことも、なんら恐ろしいことではなくなる。生きるも死ぬも、それは本人にとっては何の意味も無くなるからである。だからまた、自殺も自爆もなんら恐ろしいことではなくなる。

そうした意味で、暴力による絶対的強制は幸福な社会と言える。何も考えないで済むという意味でそうなのである。あらゆる責任と苦悩から解放されるという意味でそうなのである。


戻る。               続く。

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