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1、ナリスマシ。



生まれたばかりの初期の共同体には、いまだ個人というのが存在しない。あるのは、共同体の共有意識、シキタリとかオキテといったもので、それと対立する個人の自己意識といったものは存在しない。

そうした意味で個人が、自分で共同体のシキタリに疑問を感じたり、考えたりするのは、あってはならないし、また、出来ないように社会のシステムが機能している。そうやって社会とその生存のシステムが維持され継続されるのである。

それに従うしかないように社会が、初めから仕組まれているのである。事前に設定ないしプログラムされているのである。だから、それに従わないのは、この社会にとっての災いのタネである。破壊分子(まったくその通り)であって、隔離、駆除、破壊、あるいは追放される。

中世の魔女狩り、近代の政治犯収容・処刑がそうである。古代から極少数派であり続けたユダヤ人もそうであり続けた。これは、共同体ないし社会といったものが、自立した個人の自意識に基づくものではないからである。

個人の内面にある、自分にしかない、自分が自分であることの証明といったもの、そうした自己の信条、自分自身の判断、決断といったもの、自身の個性や自分の良心といったもの、そうした自分自身の心の拠り所。あるいは、個人の権利義務といったものが、自分自身の良心の承認によって成り立つ場合。こうしたことが、近代の社会と言える。少なくとも、そうしたことが意識されている、そうした社会である。

ただしそれは、それが成立したヨーロッパで言えることであって、東アジアは別である。ナリスマシとコピー、そして理屈と言葉の上で理解したと思い込んでいるだけである。それは、自分自身のルーツや、自分自身の肉体の感性や記憶とは切り離された世界に生きる人々の世界である。


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