index < 日誌 < ag儒教、 af必然< 「自意識のカタチ」p4/


 
2、生まれたままの姿。



しかし、それとはまったく反対の場合。すべての個人の権利・義務、内面の自己意識といったものを否定した上に成り立っているのが、初期の、生まれたばかりの
自然なままの共同体社会である。正確に言うと、原始の共同体には、いまだ個人というのが形成されていないので、「否定」もなにも、無いものを否定することなど出来なのであるが。否定とは、有るから否定出来るのであって、無いものを否定など出来ないのである。

しかし、このような個人を否定したところに成り立つ共同体のキズナとは、いったい、どのようなものなのだろうか。自立した個人というのが存在しないし、あってもならない。そうした、自己意識というのが絶対的に否定されることが、前提となっている社会である。

だから、キズナ(絆)といったものは、何も考えてはならない。考える必要も、考えることも出来ない社会である。自分が生まれて生きている、いつまでも変わらずにいる、ありのままの、自然な生まれたままの姿が共同体のキズナとなる。つまり、血縁に要約される家父長制である。

疑わず、問わず、考える必要もない。イヤ、考えるものであってはならないのである。それは、何かを意識させるものであってはならないのである。あくまで、自然のままで、無意識のままで感じられるものでなければならないのである。

つまり、それが「情緒」なのである。心情といったものである。雰囲気とか気分、空気といったものなのである。限りなくうすく、そして軽く、ただ自分を包む空気の中を、ふわふわ、ひらひらと漂い続けているのである。「情緒」がすべてを決めている。その場その場の空気が人間を支配している。まわりの雰囲気と気分で何事も決定され、そしてそのなかで自分が生きている。


戻る。              続く。

index < 日誌 < ag儒教、 af必然< 「自意識のカタチ」p4/