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それは、個人としての権利・義務が存在せず、求められることもなく、意識もされない社会である。キズナというのが、自分の外から強制力としてやって来るのであって、個人が、個人として自覚されることがない。従って、個人という意味での権利義務が表面に出てくることがない。これが初期の古代共同体である。そしてまた、それが東アジア社会の特徴でもある。 このような権威ないし暴力の強制によって、共同体社会が維持され、継続されるのであるが、このような強制力が何らかの事情でなくなったら、キズナはいったいどうなるのだろうか? 個人は自立へと向かう以外にないのだろうか?それとも、無政府の野蛮のままで、そこから抜け出るということがないのだろうか?この違い、この分岐点はいったいどこから来るのだろうか? やはり、風土なのだろうか。あるいはまた、それは、ヨーロッパを特徴づける民族移動、移民としての特質なのだろうか。何も無い、ゼロから始めるしかなかった植民(移民)者たちの精神の特質から来るものなのだろうか。 |
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