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物体が落とす影といったものが限りなく薄くなり、方向性を失った光の中で、明暗の陰の部分、暗さといったものが物体の方向と無関係に、すべての物体の奥の狭い部分に暗い陰が出来ている。光が、方向性といったものを喪失しているのである。だから、どこからでも、どの方向へも光が広がってゆくのである。そして減衰して行って奥の狭い部分に薄暗い陰を作り出している。 だから、乱反射して広がることのない、物体の奥に入ったところでもっとも暗くなり、それが外へ出るほど、表面に近づくにつれて明るく照らされるのである。だから、目に見える物体のすべてが、それぞれの一つ一つが、みな光源のように見えてくる。そしてその中にいると、自分もまた光を放つ光源のように思えてくるのである。 従ってむしろ、自分が光源そのもので、世界のすべてが自分の向かって、自分の方に向いていて、自分が世界の中心で、世界のすべてが自分によって照らし出されている、そうした倒錯した世界の中にいる。これが光の中の世界という意味である。 光は、外から自らの中に入って来るのではなくて、反対に、自らの内部から外へ向かって出ているのである。そう思えてくる、そうした倒錯した世界である。示標とか目標、目的、理由などといったものは、どこにもない。あるのはただ、自分だけの主観、思いつきと気まぐれだけが支配する世界なのである。 なぜなら、この世のすべてのものに、影を落とし、表裏を作り、方向性を与え、時間を定めていた、太陽の直射光というのが消えているからである。本来、自分の外にあるはずの絶対的基準、自分と他人、そして社会をつなぐ共通の基準というのが、消えているからである。そうしたなかにあって最後まで残るのが、自分の主観だけなのである。そしてこの主観が、まばゆい光の中で、永遠で普遍のものに思えてくるのである。 |