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それは、「自然体」とでも言うのだろうか。 「自然の流れ」とか、「うつろい」といっても、それはやはり偽善でしかないのである。それは、聞こえのよい「偽善」としか言いようがない、偽りの正義である。何もかも周りに合わせているだけで、自分自身を押し殺して偽っているのである。 正義や法律以前に、人間の頭の中がそのように出来ているのである。社会というのが、そのように仕組まれていて、それにシツケられ育てられてきたのである。それをごく自然の当然のこととして。 そのほうがラク(楽)だから。手間いらずで何も考えなくて済むから。そして、まわりのみんなも喜んでくれるから。だから、それがもっともよい、正義とか道徳のように思えてくるのである。しかし、何度でも言う。執拗に言い続けなければならない。「それは間違っている」と。 自分の考えや、自分の自己意識を無視して、まわりに合わせているだけなのである。それも流れにしがみついて。「流れ」というのは、要するに一番強そうな偉そうな人であって、それに「乗ってただよう」というのは、弱そうな誰かを引きずりだして、沈めて、その上に乗っかっているのである。それも、知らんふりして。 |
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