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6、自己の同一性。



しかし、そうしたことを最終的に決定し運命づけたのが、人間の考え方や意識、自分自身に対する自意識や自己認識などではなくて、――それらは時代とともに変化するのであって――、その民族が生きて形成されてきた自然環境、すなわち、風土にこそ、根源的な必然性があったように思えてくる。

イヤ、もっとも根源的な理由といった場合、それしかないのである。それは、「種」が生まれ出てきたところの下地であり、背景であり、生地なのである。条件であり、そしてそれを規制し方向付けてきたところの傾向なのである。つまり、その時点ですでに制約され定められていて、そうした範囲と方向にしか、変化し得なく出来ていたということなのである。

そして、それは自分自身の肉体の中で生き続けているのであって、そしてまた、社会と文化のもの言わぬ習慣や仕草(しぐさ)、感じ方やものの見かたの中に生き続けているのである。そして、それはまた、それが自分自身のアイデンティティー、自己の一体性・連続性そのものなのである。

一体性とは、自己の肉体と精神が、人格という領域でもって他人と区別され、それが自分自身の下に全体として、一体のものとして統合されている、ということである。連続性とは、歴史的な起源、ルーツであって必然性のことである。

それは、自分が自分であることの同一性のことである。自分は、自分にしかなれないのであって、それから離れると、自分が自分で無くなるということなのである。


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