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12、消える。



コトバだと、自分でもよくわからないことを伝えることが出来ない。音だけだと、内面的な心境は表現できるかも知れないが、出来事として、物語りとして現実の世界を表現できない。触覚も、やはり肌に直接触れるものを感じることは出来ても、その全体像は、やはり見えないのである。カタチにならないのである。だから、イメージ(映像)として残す以外にないのである。

そうなって初めて、心の中の心境や、思いや、苦しみ、よろこびといったものが、ずっと後まで、自分の心のなかで生き続け、残り続けることが出来るのである。記憶として残り、思い出すことも出来るのである。記録としても保存がしやすいのである。

ニオイや音では、それがなんのことなのか、カタチと残りにくいのである。肌に触れる感触や臭いといったものは、たしかに記憶として残るけれども、それがいったい何の「感じ」なのか、そのカタチや前後のつながりといったものが、現れて来ないのである。何の脈絡もなしにただ漠然としてしか記憶に残らないのである。

もしも、そうした心のなかの気になる出来事が、夢の中で映像として表現されないのであれば、それは気分的な、あるいは、ただたんに感覚的に気持ちよいとか、心地よいとか、気持ち悪いというだけで、実際の現実性も、具体性もなく、すぐに記憶から消えて、何も残らずに過ぎて忘れ去られてゆくだけなのである。


戻る。             続く。

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