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5、自意識。



生き方、考え方、そしてそれ以前に、感覚の感じ方といったものが、それまでとは異質なものになってしまっている。感じ方そのものもそうだし、そしてそれとは別に、それまで感じることの無かった未知の、異質なものを察知し、感じて予感し、予測している。

いままで感じるということ自体が無かった、未知のものが感じられ、そしてまたそこに秩序や合理性を発見している。そしてまた、自分の中にそれと同じものを見ている。意識された自分自身の理性でもって、外の現実を見ている。

現実の生きた主体とは、コトバでも、概念でも、理性でも、理屈でもない。それら以前の直接的なものである。コトバにも概念にもならない、それ以前の直接の、現実と自然と精神が一体となった、まだ区別されていない状態である。これが現実の意識であり、生きているという状態である。

自己認識や自意識といったものは、言葉(コトバ)や理屈ではないのである。自分が今、生きている現実がそうさせるのである。それが主体というものであり、自己と他者が分離・区別される瞬間なのである。

自分で自分が意識される瞬間なのである。自己の主体としての自分自身の、精神の領域と、その境界と姿といったものを自覚したのである。人間が初めて、自分自身というのを捉(とら)えたのである。

それは外からやって来る「権威」でも、強制でもなく、自分自身の中で生まれたものだ。いま、考えて行動している、今を生きている、現実のなかにいる自分のことである。何も仲介せず、媒介せずに、精神は直接に自分の下にあるのである。個として、現実と直接に対峙しているのである。


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