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4、異質。



これは発見であって、世界に対する、そしてまた自分自身の精神に対する発見である。発想の転換などではなくて、発想そのものを発見している。人間には「発想」といったものがあったのだ、ということを発見している。それは自分自身といったものの発見であり、それを証明し、確認するものであって、そうやって自分自身の精神といったものが、それまでとは全く異質な世界へと、追い立てられる。

古い、それまでの精神の拠り所に安住できなくなってしまうのである。追放ないし解放されて、新たな拠り所を求めて出て行くのである。そうせざるを得ないのである。そうしてのみ、自分が自分たり得るのである。自分を失いたくなければ、出てゆくしかないのである。自分が自分でなくなる、それを避けるには、そうするしかないのである。

現実には同一の場所、同一の時間を生きているにもかかわらず、精神は、それとはまったく異質の、別の世界を生きている。そうするしかないのである。実際そうなのであって、そうした自分を外から見ている、もう一人の自分の存在に気づくのである。

精神は、自分で自分を見つめているのである。自分自身の精神の、必然性といったものが意識されたのである。自分では、どうにもならないもう、他人のようなもう一人の自分に気づくのである。

従ってまた、自分を取り巻く世界全体もまた、変わってしまったのである。まったく異なる意味を持つに至ったのである。たしかに自分の肉体も、そしてまた、現実の世界そのものも何一つ変わってはいない。変わったのは、イヤ、根本的に変わってしまったのは、自分自身の、内面の世界なのである。

自分の精神が、何か異質なものに変わり、自分をとりまく現実世界の意味といったものが、本質的に変わってしまったのである。ひとことで言って、別世界を生きている。それまでとは異なる世界を生きている。

そして、現実から一歩退いて、区切られた別の世界から現実を見ている。「区切られた」世界とは、自分自身の内面世界であり、それが自覚されたのである。否応(いやおう)なく、そうした自分を意識しているのである。自己と他者との間の境界線を見ているのである。その輪郭と領域、そしてそのカタチを見ているのである。自分自身の精神のカタチを見ている。


戻る。             続く。

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