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「恐ろしさ」



「恐ろしい」というのは、自分が自分でなくなって、だれか他人のものになってしまうことである。自分の身体と精神が他人に乗っ取られて、自分のものなのに、自分で無くなることである。

自分は外見上、何も変わらないのに、内面において他人に支配され、何もかもが、自分の肉体までもが、他人の意思によって動かされている場合である。これは自分ではない。にもかかわらず生きている。もはや自分の精神はどこにも無いのに、自分の肉体だけが、自分の意志とは関係なく動いている。

第三者から見ると、それは僕自身なのであるが、実際には、僕自身にとってみれば、僕の肉体は他人の肉体なのである。僕はすでに存在せず、精神は事実上、死んでいるのである。そしてもしも、それが事実であり現実ならば、いっそのこと、肉体も死んでしまった方が自分らしいのである。偽りの自分は無くしてしまった方が、自分に忠実なのである。

これが「恐ろしさ」の正体である。自分の中に他人が入って来ている、ということなのである。それも自分の意思に反して。見知らぬ他人が自分の中に入って来て、自分が自分で無くなるのである。これが恐ろしいのである。

だから、自己の精神の領域といったものを確定し、要塞化し、見知らぬ者が入って来ないようにカタチを整え、出入り口を定め、検閲して、管理しなければならない。自己の外面と内面といったものをハッキリと区別して、むやみに他人が入って来ないようにしなければならない。

とは言っても、人類の歴史がずっとそうであり続けたように、文明と社会というものが、「権威」という上下関係に従う自己放棄を前提に成り立っているのである。これは、破戒しなければならない。真実の社会とは、それぞれの個人が自立し、独立した関係であって、自分自身の意思でもって繋(つな)がっている世界である。それが今の日本では非常に曖昧になっている。そうである限り、真実は見えないのである。


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