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日本語の「あける」という言葉。 この「あける」を具体的に分けると、明ける・開ける・空ける等に分けられる。だが、これらは本来、同じこと言っているように思える。漢字で表現するから分けられるのであって、日本語自体には本来、それらの間に区別などないのである。また、区別のしようがないのである。 古代の日本に文字はなく、コトバだけでコミュニケーションしていたのだから。発声される音だけで意味を伝えていたのである。だから、明ける・開ける・空けるに違いなどなく、それらすべてが同じ「あける」という発声で表現された。また、表現されるしかなかったのである。 それは包括的で、おおらかで、精神の内部に深く根ざしたコトバで、もしかすると、精神と肉体と生理が、いまだ区別される前の、それらがまだ一体だったころの、言わば、コトバになる前の叫びやタメ息、あるいは、緊張がほぐれて一気に出て来た、喉(のど)の呼吸の音だったのかも知れない。衝動や発作に過ぎなかったものなのかも知れない。どちらにしても、「あける」という言葉に、明も開も空もなかったのである。 それは、もっと深く、精神や情感、肉体の生理に直接根ざしたものだったのである。私たちは、こうした日本列島の風土がもたらす、情緒の世界を生きている。風土、つまり、自然環境と文化とその歴史が私たちを包み、そして支配しているのである。 この中から私たちの情緒が生み出されて来たのであるし、また、この中でのみ、私たちの情緒は成り立ち得たのである。「情緒」とは、このことなのである。それはまた、私たち自身の成り立ち、その感覚や感性、感じ方そのものを決定し方向付けている。それは日本列島に生きる者にとっての、精神の特質、特徴ともなっているのである。 |