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自分にとって、そしてまた誰にとっても、もっとも大事なことは、生きている意味であり、理由であり、自分が、まさしく自分であるという、たしかな証明である。それらは本来、自分自身で獲得してゆくしかないものなのであるが、現実はそうはなっていない。 それらは普通、一般的には、他人から与えられる。 そうした、自分自身の思い込みと偏見は、信仰や信念、確信として、外からやって来る。そうした自分に意味と理由、そして社会との絆(キズナ)とつながりを与えてくれるのが、学校であり、地域社会であり、テレビと新聞なのである。 主観としての偏見と思い込みが、群れて媚びて迎合して常識となり、客観となる。そして普遍へと向かう。だからやはり、私たちは偏見と迷信の世界を生きていると言える。そしてまた、このような様々な偏見や主観を集約して、これに方向と範囲、枠組みを定めたのが秩序ある社会と言える。これがまた、文明や政治体制の前提となっている。 だからまた、他人の忠告とか、みんなの意見というのは、たいてい間違っている。他人もみんなも自分の考えというのがなくて、ただ、形式的に表面上、迎合しているだけなのである。だからまた、他人にもそれを求めるし、そしてまた求めざるを得ないのである。求めなければならない立場なのである。そうしたことが社会の中での自分の立場と居場所を与えてくれるからである。 自己意識というもの、自分で考えるということがないのである。偉い権威らしき者の 言っていることを、自分の頭の中にコピーしているだけなのである。 自分で考えたこともないし、考えるということがない。そうした意識の自律性とでもいったものが、もともと、精神の中に無いのである。だから、思考というのが、すべて他人のコピーから成り立っている。だから、みんなの意見というのは、迎合と自己放棄の結果なのであって、もっともアテにならない、疑わしい意見とならざるを得ないのである。 |
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