index < 日誌 < k思い込み< 「考え方の形式」p9/ |
しかし、それでもやはり、それは作り物の世界である。思い込みと主観だけの観念の世界である。たしかにそれは現実にあって、目の前に見えているものではあるが、やはりそれは現実ではない。やはり現実とは別のものだ。人間の観念と現実とはやはり別のもので、現実は人間とは別に存在するものなのである。だからこそまた、意識もされるのである。これは、どこかおかしい「まやかし」ではないかと。 人間の現実の生活といったものが観念化されているのである。そうやって世界が認識され、自分が生きているということが実感されてくるのである。自分の意味と理由が確かめられるのである。現実が納得されるし、理解も出来るし、その中で他人とかかわって生きて行くことができるようになる。自分というのが意識されてくるのである。生活と現実の観念化が達成されるのである。 自己了解と自己認識が為されたと思えてくるのである。自分の居場所と理由、そして生きてゆく意味が与えられるのである。だからこれは、やはり、「作り物」なのである。人間の意識が作り出した認識のカタチなのである。しかしまた、これはどうしても必要なことである。 しかし、たとえそうだとしても、それはほとんどどうでもよいことで、そんなことよりも大事なのは、そうやって世の中が成り立っている、ということなのである。そうやって、世の中が仕組まれ、設定され、システム化されている、ということなのである。このように、あらかじめ秩序付けられ、条件づけられている、ということなのである。 そしてその根源となったのが、何らかの必然性といったものであるが、その民族の風土、地理と歴史的条件、そしてまた、それ以前に民族が持っていた固有の特質といったものが要因となって、形成されて来たと思えるのである。例えば、情緒といったものが、日本の古代宗教や自然条件から、そのような姿となって映し出され現れてきたと思えてくるのである。 |
index < 日誌 < k思い込み< 「考え方の形式」p9/