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だが、ひとことで言って、それは面倒くさいこと、だれも考えたくないこと、どうでもよいことなのである。大事なことは、それがいま現実にあって、確かなこととして定められていて、だとすれば、それを前提に、その上で生きてゆくしかないのであって、とすると、やるべきことは明白なのである。 とっても解りやすく簡単なのである。すでに骨格として出来上がっているこの秩序とシステムを延長し、そしてその隙間を埋めて、拡げてゆくだけでよいのである。それだけ、つまり何も考えてはならない。むしろ、考えない方がよいいのである。 わかりやすく言うと、与えられ、定められたレールの上を、ただ死にもの狂いで走るだけでよいのである。考える苦しみは不要なのである。自分のタマシイをのぞき込まなくて済むのである。自分自身に、あれこれ思い悩む必要がないのである。自分自身を見つめ、問い直すといった場面が無いのである。自分の中で自分を発見することもない。だからまた、ラクだし、だれにも受け入れられるのである。 「形式的」というのは、このことなのである。だから、だれもが簡単にそれに成れるし、そう確信させてくれるし、そのように思い込ませてくれるのである。つまり、表面の殻(から)だけあって、中身がカラッポの世界なのである。 そしてまた、その方が理解しやすく分かりやすく、そして他人にも強制しやすく、そして自分が他人に対して有利な立場に立ちやすいのである。社会の中で少なくとも自分だけは安定した立場でいられるのである。そうした立場を与えてくれるのである。だから、どうしても他人にもそれを認めさせなければならないのである。 |
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