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そうした感情や情緒のあり方といったもの、そしてその特徴といったものは、日本人にも、イヤ、日本人でなくても、だれにもわかりやすいものである。しかし、だからといって、たとえば日本人(ロシア人でも中国人でもかまわないのであるが)が、そうした情感や情緒といったものを持ちうるかと言えば、そうではないのである。 日本人の情緒、感覚の感じ方といったものは、そのように出来ていないのである。そうした気質を理解することは出来ても、そうした気質に成りきるということが出来ないのである。もともとそのように出来ていないのである。情緒とか気質の根源にあるものが、そもそも根本的に異なるところにあるのである。それが成り立つ精神の地肌や背景といったものが、そもそも根本的に異なる異質なものを土台にしているのである。 これらのことが、もともとそのように出来ていない、という意味なのである。感覚とか心情の中で理解することは出来ても、自分自身の情緒として、その中に溶け込むことが出来ないということなのである。 情緒や感じ方といったものが、民族によって個性的なのである。民族というよりも、より正確に言うと、民族をカタチ作っている自然環境と文化の歴史がそうなのである。そして、そこから情緒や感覚の感じ方といったものが成り立っているのである。そうでなければならないものとして、また、そうとしか有り得ないものとして成り立っているのである。 しかしまた、言い換えると、だからこそ異文化というのが理解し得るのである。自分と同じものなど比較出来ないのである。量的な比較はできても、質的比較が出来ないのである。それを異質なものとして理解することが出来ないのである。それは他者との関係性において見えてくるものなのである。違うものであるからこそ、それが自分とは別のものとして意識されるのである。 |
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