index < 日誌 < ag儒教< 「倒錯」p5/ |
言い換えると、人間は、あらかじめ制約され条件付けられている、ということなのである。そのようにしか見えず、見ようともせず、聞こえもしないということなのである。 そして、これが人間と現実世界とのかかわり方なのであって、人間にとっての現実とは、このような制約と条件の中でのみ感じられ意識もされ、そして行動しているということなのである。 そしてまた、これが人間にとっての「現実」なのである。従ってまた、この現実を離れたところに人間は存在せず、こうした現実の中でのみ、人間は何かを見たり聞いたり、感じたり意識したりしているのである。 ということはまた、人間はこのような現実に条件付けられていて、感覚や思考といった感じ方自体が、あらかじめ方向付けられているのである。従ってまた、自分が願うもの、それなしには生きて行けないものといったものに対して、真理や正当性を見い出そうとするのは、やむを得ない当然の、自然なことではないだろうか。 そしてそれが、親や共同体、血縁に対する絶対的な愛や忠孝として固定され、絶対のものとして制度化したのが「儒教」ではないだろうか。 |