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11、地の果て。



アイデンティティーは、歴史と暮らしに表現される。
自分は何? 誰か?

自分の理由といったもの、自己認識や自意識といったもの。それが自分の事なのに、自分とは異なるもの、違うもの、異質で未知のものとして感じられてくる。自分が他人のように思えてくる。また、そうした関係性が自分というのを意識させているのである。

自分とは異なるもの、自分の中の他人としての意識が、同時に自分自身というのを強く感じさせているのである。それが現実のものとして自分に迫ってもくるし、実際に見えてもくるのである。自分にとっての現実の持つ意味といったものが変わってしまったのである。

他者とは何か? 
自分とは異なる、自分とは別の、自分以外の、自分の外にあるもののことである。そして、ここに境界線が引かれ、また、それが認識され、外なるものとは異質な自分自身の内なる必然性が意識され、自覚もされて来る。こうした他人としての自意識が自己認識につながっている。

日本人の場合、それは自分とは異なるユーラシア大陸との関係性として現れている。文化と歴史の中心たる中華の人間たらんとしても、それが出来ないのである。結局それとは別の人間でしかないのである。情緒や気質、そしてその精神の内なる必然性において、それはどうにもならないことなのである。日本人は日本人にしかなれないのである。

歴史と文化と、そしてその精神において同一たらんと欲したところで、それが出来ないのである。そうした精神以前のところで日本は「島」なのである。大陸とは海で隔てられているのである。なおかつ、その反対側は、ただ広いというだけの何もない(19世紀までは)太平洋だったのである。

だから、中国において大朝が交替をくり返し、新たな国家が成立しても、日本には攻めて来ない。よほどヒマで物好きであっても、攻めて来ない。日本から得るものは知れているし、侵略したところでその先には何も無い地の果てなのである。


戻る。            続く。

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