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現実が、自分が生きているというのがわずらわしく、うっとうしく、現実の何もかもが他人ごとのように思えて来る。現実というのが表面だけで、中身がカラッポで見栄と体裁だけで出来ている。目に見えてくるのは形式だけで、内容がどこにもない。 精神とタマシイを欠いた、いわば、人間という姿を外からかぶせただけのオバケの世界に思えてくる。イヤ、実際にそう見える。服も、顔の表情も、しぐさも、ライフスタイル全般がそうである。白々しい、作り物のオバケの世界のように見える。どう見ても、そのようにしか見えない。 しかしそれは大衆が望んだことなのである。そのように仕組まれ、また、この世に生まれた途端、そのようにシツケられるのである。先生の言うこと、新聞に書いてあること、学者の言っていることを信用してはならない。 実際、中身も内容もなく、ただ肉体だけが、自分の存在理由を見失った肉体だけが動き続けている。そしてその肉体の向こう側には何も無い。実体のないオバケの世界なのである。 つかみどころのないアイデンティティー。自分が自分であることの一体性や継続性が見えないのである。自分がどこかで切断されていて、見えなくなっているのである。こうした現実の今の日本に、自分自身の存在の理由といったものがあるのだろうか。 自分たちの歴史と文化というのが、どこかで無理やり切断され、断絶している。統合されるべき自己のアイデンティティーといったものが、どこかで破壊されている。まさにこうした状況は、中世と近世の境界線上の時代、生成と破壊、そして自己の発見の時代、つまり、ルネッサンスの時代と非常によく似ている。 |
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