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いったい、何をもって「精神の自由」などというのだろう? それ以前に、およそ、だいたいから、だれが見ても、いつでもどこでも、どんなときにでも丸見えなのである。何を考えているのか、すぐにわかってしまうのである。 見知らぬ他人のことなのに、その他人が何を考えているのか、すぐにわかってしまう。いつでも、どこでも、どんなときでも、知りたくも、気づきたくもないのに、わかってしまうのである。自分と同じものを他人の心の中に見てしまうのである。 また、そうでないと、自分自身というのが非常に落ち着かず、自分に何かが欠けているように思えてきていたたまれず、やりきれなく、そしてまた、孤独にさいなまれることになる。自分がこの「空気」の外の人間のように思えて来て耐えられなくなるのである。にもかかわらず、精神の自由とか、個の自立を唱えている。 日本というのは空間的に狭く、その狭い空間の中を人間同士がひしめき合って暮らしている。湿気が多く人間同士が日常的に接近しているために、感情的にならざるを得ない。イヤでも清潔好きになる。清潔というのはこの場合、人間同士の間のケジメであり、マナーなのである。自意識とか責任能力を問われるのである。 反対に、そうでない場合、だれからも嫌われるし、相手にもされないし、自分もそうしたまマナーとルールをわきまえない人間を避けることになる。自分自身に対する責任能力の欠ける人間と見なすのである。いわばそれは、人間の生理的な事情から、そうした傾向、方向性といったものを生み出しているのである。そして実は、これが風土なのである。民族の個性といったものなのである。 |