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いつの時代、どの地域、いつでもどこでも、そしてだれにも罪の意識はある。人間が生きていること自体が罪なのだから。人間が自らを意識すること自体が罪なのである。 人間が生きて行くためには食べなければならず、食べるとは、生命を、動植物を殺すことである。そうやって、人間の肉体が維持される。また、人間は生きて行くために社会を形成する。社会とは、秩序であり、オキテであり、強制力である。そしてまた、人間同士の上下の関係であり、繋がりであり、ケジメであり、サダメである。そして人間が人間に対してする「排除」である。 社会の中にはどうしても逆らうことが許されない、絶対的な強制力が存在する。オキテであり、シキタリであり、あるいは常識やマナーといったものである。それぞれの社会には、それぞれの社会特有の、そうしたオキテと常識の世界を生きているのである。 それは人為的なもので、そうやって社会が成り立っているのである。そうやって社会が維持され、保存され、継続して行くのである。社会とは、そうした秩序、オキテなのであって、絶対的な強制力なのである。暴力による強制はもちろんのこと、文化的・道徳的な礼儀作法などもまた、絶対に守らねばならない強制力なのである。 こうした強制力こそが社会が社会たる根拠であり、そしてこれこそが社会のシステムなのである。従ってまた、そうである以上、このシステムに合わない者、そぐわない者、馴染めない者、相性の悪い者、あるいは不適格な者は、当然のこととして出てくるのであって、これがまた、社会のシステムというものであって、社会のシステムそのものが、そうした不適格な人間を作りだしているとも言えるのである。 |