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あるいは、「適格」ということ自体が「不適格」を必要としているのであって、そうやって自己を正当化しているのである。それ以外に自己の存在理由といったものが見つからないのである。 そうである以上、いつでもどこでも不適格な者が存在しなければならず、作り出されるのである。文明のシステムとは枠であり、範囲であり、方向性なのであって、そこからの逸脱する者をあぶり出して、または、ねつ造して排除することによって、社会が継続され得るのである。 社会のシステムそのものが、そうした不適格な人間を作りだしているのである。不適格な人間の存在を前提に成り立っているのである。だとすれば、それは罪なのであって、どうにもならず、やむを得ない必要悪なのであって、システムの原理そのものなのである。そうである以上、この社会の中で生きる人間は、罪なのである。 社会のシステムに合わない者は排除される。阻害され、追い立てられ、隔離、抹殺、追放される。そうやって、社会は平和を維持するのである。しかし、社会のシステムは歴史上、常に変化しているのである。魔女裁判、人民裁判、強制(絶滅)収容所、ホロコースト、民族浄化などといったことは、いつの時代、どの地域にあっても見られるものである。あるいはまた、身体障害者、孤児、混血、さらには出生が卑しいということで排除されたりもする。 こうした世の中の動きや、システムの秩序そのものにも、どこか心の奥底で、何か言い知れぬ異和感や罪の意識をいだき続けているのである。自分というのがシアワセであるためには、そうでない者を作りだしているように思えてならないのである。 |