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1、自然環境。



様々な考え方や生活のあり方、そしてそれらの基になっている、現実の感覚の感じ方といったもの。それらは現実の生きた世界の出来事であって、そこで生きる人間と民族の歴史的および地理的条件といったものが、そうした現実の前提となっている。日本の場合、それは日本列島という「島」の空間として、そしてまた移り行く明瞭な四季の、時間の流れとして意識される。

人間が自らを意識するのは、時間の流れのなかで、自分が変化していると感じられるとき、つまり、自分のなかで自分が分裂して、自分と自分が向き合うときである。そしてまた、空間のなかで、現実の世界といったものが、自分とは別のものとして、自分に対立してきて、自分と現実とが切断される場合である。自分で自分が他人のように思えてきて、自分と自分が向き合うことになるのである。

こうやって仕方なく、やむを得ず、他にどうしょうもなく、やむに止まれず、まったく致し方なく、自分の意志とか心情とはまったく無関係に、自分と自分とが向き合されることになる。どうにもならず、逃げることも避けることも出来ず、文字通り仕方なく、自分で自分を意識させられることになる。それ以外にないのである。始めから選択の余地などなく、それだけが自分が生きて行ける現実となっている、そうした場合である。

そうした現実の世界が日本においては、「島」という閉じた空間として、そしてまた、循環する四季という時間の流れとして現れる。空間自体は、さらにユーラシア大陸に対する観念的な関係と、自然環境に対する現実的・実践的・技能的関係に現れる。

儒教世界の下では西洋的な人権やプライバシーの概念は育たない。たがいに、相容れないものである。従ってまた、自己意識というのが自覚されることもなく、基礎科学や理論科学などの純粋科学は生まれない。すべてが実践と結びついた、技術というよりも技能的・生得的な枠から出ることがない。


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