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それを通して、まさに日本人は自分自身の精神の世界を見ていたのであり、自分の中にあって、自分とは異質な、異なる別の世界を見ていたのである。それは同時にまた、自分自身の姿(すがた)であり、自分自身の心の中の世界なのである。 そうした分裂した精神の関係性において、自分というのが意識され、自覚されてきたのである。また、こうしたことが空間という、大陸と島という地理的関係のなかで、自己認識が観念的に感じられてくる場面ともなってきたのである。 自意識の生じてくる場面といったもの、自己の心のあり様の変化の自覚、そしてそのキッカケといったもの。それには、もう一つは、日本列島の地理的条件の特殊性が上げられる。 四季が極めて明瞭であること、温暖で優しく豊かな日光、水が清く豊かであるということ、南北に伸びる、高低差ある地形は様々な植生を育んできた。また、四季の植生の変化の移り行きが著しく、そのカタチ、色や臭い、変化そのものの動的な変化のリズムが綺麗で鮮(あざ)やかであることである。 それらがまた、日本列島の湿気の多い気候と絡んでいて、より直接的で、肌に触れる情的な感覚として入り込んで来ている。それはむしろ、感覚というよりも、情緒であり、感覚の感じ方でなのである。感受性そのものなのである。そうした感覚のあり方、それが指向するところ、特性や個性といったものを、日本列島の自然環境が決定しているのである。 変化というのが、植生とか生き物の移り変わりとして、生命の盛衰、生と死として、鮮やかに映し出され、移行してゆく。変化というのが、場所としてだけでなく、時間的な移り行きとしても映し出されている。リズムとして捉(とら)えられている。それは同時に自意識の世界でもあって、そうした変化を透かして、自分自身の心の移り変わりを感じてもいるし、見てもいるのである。そしてそれはまた、自分が、自分を意識する場面なのである。 |