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4、異なる原理。



ところが日本人の場合、大陸とは別のものとして、大陸との関係性において自分を意識している。そのように捉(とら)えるしかないのである。それ以外のとらえ方が出来ないのである。

大陸とは、海でへだてられているのである。仮に、大陸と同じものとしての自分を望んだとしても、それは非現実的な、意味のない希望にしかならないのである。あくまでも、それに同化するといったことがなく、同化できるというものでもなく、別のものであり続けるしかないのである。これが、大陸との境界線としての「海」である。

同化は現実の話としては、不可能なことなのである。たとえ、中途半端であっても、地理的・空間的にそうであるだけでなく、むしろ観念的にそうなのである。歴史的、文化的、そして心情的にそうなのである。

文字や言葉、宗教や礼儀作法にいたる、たいていのものを中国から学び、そしてそれを自分のものにして来たのであるが、そしてまた、それを通してしか、自分というのを表現できずにいるのである。にもかかわらず、自分というのが、いつも別のところに在り続けたのである。

こうした状況。島と大陸との相対する関係、間(あいだ)にある海を境にして、まるで鏡(カガミ)を見るように大陸を見て来たのである。それは反面、自分の姿でもあり、そしてまた同時に、自分とは全く別の世界でもあったのである。

それは言わば、ピンホールカメラの世界のようでもあって、その限りなく小さく極小の出入り口でもって、外の世界とつながっていたのである。そして同時にそれは、ただ一つの外からの刺激でもあったのである。

唯一、自分とは異なる原理や必然性でもって、自分自身を見ることが出来たのである。それは、言い換えると、日本という島を外から照らしだす、自分自身の中には存在しない、異質な光だったのである。


戻る。            続く。

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