index < 日誌 < u列島< 「生理」p15/ |
しかしまた、反対に、こうした状態が心の交流を深めたのかも知れない。もの言わぬ何気ない仕草(しぐさ)や、日常のありきたりの、差しさわりのない、あまりにも普通で、当たり前の風景の、日々のくり返しのなかで、言葉以前のコミュニケーション方法として、もの言わぬ暗黙の合意と了解が、そうした心の交流といったものを深めていったのではないだろうか。 韓国には、それが見られない。日本特有の心のあり方としての気配りや思いやり、察しの心情といったものがない。相手に見返りを求めたり、それを期待したりしないのもそうである。ごく自然に、本人もそれに気づくことなく行っているのである。このような気配りと思いやりがないと、このような社会は実際に崩壊してしまう。そうした、あやゆい、いまにも壊れてしまいそうな無言の合意の世界を私たちは生きている。 日本は狭く、同質の同じ子孫の人間が、ずっと同じように生きてきたのである。その中で少しでも変わった事をされるとパニクルのである。収拾がつかなくなるのである。それはちょうど、集団的ニワトリ小屋の世界である。無言の集団主義の世界なのである。周りとみんなの黙認なしにはどんな些細なことも許されないのである。そうやって社会が維持されているのである。 だからまた、感情をあまり外に出さない。まわりに気をつかうのである。高低長短のない平坦な日本語がそうである。どこか、くすんだような、目立つようで目立たない、淡い色の服装の好みもまた、そうである。しぐさや、立居振舞いの行儀良さや几帳面さもまた、そうである。 すべてそうしたことは、物言わぬシツケや情緒として、それと意識されることなく自然に身に着けてきたものなのである。あるいは、この世に生まれる前から、もともと、そうなのかも知れない。数百数千年にも渡って受け継がれて来た情緒と感覚の、肉体の記憶なのかも知れない。 |