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自分から進んで自由になるしかなかった。自由に生きる以外に方法がなかったのである。自由以外に何もなかったのである。自由に生きることが出来たのは、自由しかなく、自由に生きるしかなかったからだ。自分の意志とは関係なく、自分の意志を打ち砕く現実の条件が、すべての生存の可能性を破壊してしまって、人間をして自由に生きて行くことを余儀なくさせたからである。 誰もリスクだらけの、未知の自由の世界になどに行きたがらないのである。それまでの自分の歴史や人間関係から離れたくないのである。自分にとってのキズナ(絆)といったものを捨てたくないのである。自分で自分を否定するようなことは、なんとしてもしたく無いのである。だから仕方なく、いやいやシブシブ、どうにもならず、どうしても、やむを得ず入ってゆくのである。 このような、見捨てられた世界、何もない世界、自分で生きて行くしか無い世界だったのである。すでにあるはずの、先行する生存のシステムに頼ることが出来なかったのである。歴史が切断されたのである。自分自身のアイデンティティーが破壊されたのである。自己というのがどこかで断絶し、何か別のものになっているのである。自分が、それまでとは違う何者かになっている。あるいは、それまでとは別の者として生きて行かざるを得なくなっている。 自分が自分でなくなり、新しい原理と絆(きずな)の下に、新しい自分が生成されたのである。しかし、それに気づくのは、たいてい、自分が別人になった後で、振り返ることが出来るようになってからである。つまり、以前の自分と現在の自分が違うものとして比較できるようになってからである。自分が以前とは、どこか違う人間になっているのである。自分が、それまでとは違う何かになる、ということが起こっているのである。 |
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