index < 日誌 <ag儒教< 「続、家父長制」p3/ |
儒教的東アジア社会に、もともと自由な意味での道徳など存在せず、それは自分が判断するのでも、理解するのでもなく、自分でよしとするのでもない。そうした個人の自意識そのものが否定される。自己意識はあってはならない、わけのわからない、意味不明のものでしかあり得ず、むしろ、災いのタネとして排除される。 道徳は、それ自体が絶対的強制力である、という以前に、自然の法則として受け入れられている。逆らったり、それどころか意識することも、考えることも許されない、当然の自然のあり様として身に付けられる。 このような自然の法則として、まるで自分が生きて呼吸する空気か水のように、自分と一体化して溶け込んでいる。考えても、意識してもならない、ありのままの自然の流れのように。ここに、家父長制の原理を見ることが出来る。 それは、元々からある自然の状態から出発点して、それを肯定するところから始まっている。自らを否定するのではなく、肯定するのを出発点とするのである。だから、そのままの状態が意識に反映され、それが良しとされ、当たり前で、永遠で、普遍ものと感じられる。または、そのように感じなければならない世界を生きている。あるいは、それ以外の生き方が許されないという世界である。そうしたシステムの世界である。 |
index < 日誌 <ag儒教< 「続、家父長制」p3/