index < 日誌 <ag儒教< 「続、家父長制」p3/ |
情緒や感じ方、それに考え方もそうである。家父長制の上下関係こそが社会の絶対不変のものとして、無意識のうちに絶対化される。それは、思考と意識の世界がそうであるというよりも、それ以前の生き方や暮らし、感じ方がそうなのである。そうやって永遠に変わることのない絶対的なものとして固定される。 それは種の維持と保存・継続のシステムと、それを成り立たせ、形作って来た自然と文化の制約された条件が生み出したものなのである。それは東アジアの場合、稲作と人口の集中という生存の条件から、儒教的なシステムの固定化として現れている。 変化する柔軟な対応といったものが否定され、そしてまた、その変化の原因となる異質なものが、あらかじめ排除されるシステムの上に成り立つ社会である。変化がないというのが良しとされる世界である。 「稲作」という生存の様式のすべては、自然条件、人間の力ではどうにもならない太陽の光と水に依存している。いかなる変更も受け入れず、ずっと不変であり続けるということが、この生存のシステムの条件なのである。従ってまた、そこに生きて持続する人間の社会関係、上下関係といったものも不変でなければならない。 こうした「不変」であるということに根拠と理由を与えているのが、人間の意思に係わることのない、ありのままの自然な状態。もとからあった、人間の意思とは別のところにあって、人間の意思に左右されることのない血縁、つまり、家父長制である。 それはいま現実に存在する、そして今までもずっとそうであったように、人間の気まぐれや思いつき、思考や意思を排除したところにある、自然な結び付きであるとされる。 だからまた、それが自然で当然の絶対的な強制力となり得るし、ありのままの自然の理由のように思えてくるのである。なおかつ、血縁は、現実に存在する自然の結合である以上、だれも侵害したり、異議をとなえることもできず、また変更も出来ないのである。従ってまた、だからこそ、絶対不変の正当性の根拠となり得るのである。 |
index < 日誌 <ag儒教< 「続、家父長制」p3/