index < 日誌 <z自意識< 古代ローマ、「自意識の発見」p2/


 
1、自覚。



自分はどうなのかというのが、自分の外の強圧的な権力の原理として、自分の外から押し付けてくる「人格の強制」として、そしてその内面と外面の境界線を境として、自分の内面に反射して映し出される。

自意識というのが、自意識とは正反対の、「ローマ帝国」の抽象的原理の強圧的な強制の中から意識されてくる。自分の外からの強制力の反発として意識されて来る。このような、精神の分裂を通して自分というのが意識されてくる。

この「人格の強制」とは、他民族を統治するローマ帝国の必要性から来ている。このような自己の内面を無視する「ローマ法」による統一は、帝国内の数々雑多な民族や個々人の内面にわずらわされることがあってはならないのである。それは個人の内面とは別のものなのである。

そうして初めて多民族の法に基づく統合、全体性・一体性が可能になるのである。しかし、それは他人の外面をどうこうするだけであって、だからまた、個人というのが、外面と内面に分裂される。ここに言う外面とは、法に基づく抽象的原理であって、そして内面とは、破壊されたキズナと共同意識の、無視され疎外された主観的自由である。

ただし、この場合の自由とは、選択の自由ではなく、追放され、無視された、どこへも行くアテのない自由、選択そのものがない自由である。しかしまた、だからこそ本当の意味での自由が意識されたのである。精神の自由がそうなのである。それ以外になかったのである。このような、何もかもが否定されたところから、真の意味での内面の自由が自覚されて来る。


履歴へ              続く。

index < 日誌 <ag儒教< 古代ローマ、「自意識の発見」p2/