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9、理性。 



このような、自分を意識するということ自体が、意識する自分と、意識される自分とに、自分が分裂している。そしてまた、自分自身のなかにある、このような関係性こそが自分というものの正体ではないだろうか。それは他人から与えられたものでも、自分のなかに元から備わっていたものでもなく、自分自身の内なる必然性や個性から、否応(いやおう)なく生じてきたものなのである。

そうだとすると、それはまさに自分自身そのものなのであって、いやがうえにも自分で自分を意識し、自分を自覚しているのである。自分をたしかめ、理解し、そしてにぎりしめているのである。自分で自分をとらえ、そしてつかまえたのである。

他人から教えられたのでも、押し付けられたのでもなく、偽りのそれでもなく、まさに自分が自分の主体となったのである。精神は自分の肉体をとらえたのである。自分が理解されるとともに、外の現実がこのような理性の下に理解される。

自分の精神のなかで発見された秩序といったものが、外の自然の世界にも見い出される。現実世界の、一見(いっけん)、とらえどころのない様々雑多なものが、同一の法則や秩序や規則の下に把握され、そして動いているのが理解されてくる。つまり、それが理性であり、「理」にかなっているというのは、合理性を指しているのである。それは、精神と自然の必然性や秩序を言っているのである。


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