index < 日誌 <g自己分裂< 「オバケ」p6/ |
自分にとって否定された現実が、それでも残り、観念の世界の中でよみがえり、映し出され、そしてそれが幻や幻覚として現実の世界に現れているのである。もちろん、現実にはない空想の世界の中で。しかし、それは現れるしかなかったのである。 それは自分自身の精神の姿なのであって、自分で自分を見ているのである。そしてなにかを感じて、自分で自分をたしかめ、確定しようとしているのである。現実の世界に自分の存在が無い以上、自分で自分を見つけるしかなかったのである。そうしたことが、夢の中や真昼のマボロシとして自分自身の妄想の世界に現れているのである。 しかし、たとえ妄想と空想であっても、僕には確かに見えるのである。自分自身の目で確かに見ているのである。幻や錯覚として確かに見ているのである。たとえ錯覚であってもそれを見ているということが、これが僕にとっての確かな現実なのである。 それは、ボク自身の記憶と願望の世界であって、拡張され誇大化された妄想である。ただし実際、自分自身の目の中では見ているのである。自分自身の生理や神経作用のリズムが、アンサンブルとなって外の世界に共鳴し同期しているのである。広がり響き合っているのである。 あるいは、疲れや、底なしの恐れと「おののき」といったものが、自分自身の中で勝手にイメージを作り出しているのである。そしてこのノイズや不具合といったものが錯視となって映し出されているのである。そうした意味で、これは事実であって、最も忠実に現実を反映している映像なのである。たとえ錯覚であるとしても、そうした錯覚こそがが最も正確に現実を映し出しているのである。 それは自分のなかにあって、自分でもどうにもならない世界なのである。自分自身の肉体の記憶の世界なのである。肉体が祖先の記憶として、それをリズムや生理作用のパターン(型式)として、保存し続けて来たものなのである。衝動や本能、そして情緒として。 |