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自分の中にあって、同時にまた自分のものではない、自分ではどうにもならない、自己と他者が入り乱れて錯綜し、混沌とした、何もかもがボンヤリしている、曖昧(あいまい)な世界なのである。自己と他者とが必ずしもハッキリと識別できない世界なのである。 精神でも肉体でもなく、意識でも外の自然でもなく、そのどちらでもなくて、と同時に、そのどちらをも繋(つな)いでいる、肉体の感覚や生理の領域がそうなのである。それは精神にも肉体そのものにも属さない、そこから区別されて生成されてきた、それとは別の世界なのである。肉体でも精神でもなくて、それとは別の「感覚そのもの」の世界なのである。 それは、肉体の神経と感覚の生理作用といったもので、それが自分の外の世界と作用しあって、ひびき合い、数千数万年の長き体験が反復継続される過程で、独特なリズムやパターンとなり、最適化され、様式化されてきたものなのである。 このような感覚の感じ方といったもの。特殊化され、反復継続し、そしてそれが引き継がれていって、そして固定化し、定着して来たもの。それがその民族集団を特徴づける特殊なパターン、あるいは感覚とその感じ方が様式化された「型」なのである。 言い換えると、情緒的特性、あるいはそうした集団を特徴づける心の持ち方、その動きの傾向といったものなのである。しかしまた、そうしたことが人間を支配しているのであって、そしてそれを条件づけ方向づけているのが、その民族が生きている、現実の文化と自然条件なのである。そしてまた、こうしたことが人間をして暗黙の内に規制し、そして有無を言わせぬ絶対的な強制力として人間を支配し続けているのである。 |