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私たち日本人にとって、たとえ同じ気温と湿度であっても、春と秋はハッキリと識別できる。私たちは四季というのを、ただ単に、気温の変化だけでなく、自分自身の五感でもって感じているからである。 空気が違う、ニオイが違う、植物の色や形が違う。それに、動物の鳴き声の音色(ねいろ)が違う、等々である。そうやって私たちは意識することなく春と秋の違いがすぐにわかるのである。 しかし、それだけではないのである。そうした四季の移り変わりというのが、私たちの心と情緒に密接に連動しているのである。そうした、移りゆく時間の流れの中で、私たちは自分自身を見ているのである。 日本には変化する四季があって、そうしたことが自分自身をかえり見るキッカケとも、場面ともなっているのである。そうやって自分自身を見てもいるし、また、感じてもいるのである。 しかし、それでは、四季のない世界ではどうなのだろう? そこで生きる人々にとって、自分を省みる場面とはいったいどういう場面なのだろうか? つまり、集団としての民族あるいは人種または国民によって、自分を意識する場面が異なるのである。そうしたことが民族集団の特性、特殊な性向となっているのである。情緒のあり方、揺れ動く心のありさまとなっているのである。 |