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人間関係、道徳、絆(きずな)といったものは、外面的で形式的なものである。ナリスマシ、思い込み、コピーによって、自分自身に思い聞かせ、そうやって納得させるのである。そうやって、有るのか無いのかわからない、自分自身の「理由」といったものを信じ込ませるのである。信じなければならないのである。 これが絆(きずな)であり、道徳なのである。世間では、これを「信用」とも言っている。そしてこれが人間同士をつなぎ合わせるルールとマナーともなっている。 大事なことは、このような表面的な、目に見える体裁だけである。要は、表面的な形式だけ整っていればよいのである。中身は有っても無くてもどうでもよい。できれば無い方がよい。わずらわしく、うっとうしいだけで、ジャマにもなるから。また、中身がカラッポだと「災いのタネ」になることもない。 そうやって、実際すぐに現実で使うことの出来る知識だけが重宝がられる。過程は無くて、結論だけ重視される。結果と数字だけで判断される。「結果がすべて」などと、前後の脈絡を欠いた意味不明のことを言い始める。 そうやって、精神の内面性といったものは係わることもないし、どうでもよい、関係のないものとして扱われる。それどころか、トラブルのタネと見なされる。面倒くさく、わずらわしく、無用のものとして扱われる。しかし、出来れば精神の内面まで自分のものとしたいのであるが、そんな余裕はだれにもないのである。 そしてそれ以前に、そんなこと、だれも考えたりしないのである。考えたこともないし、考えられないし、考えることも出来ない。それが何のことなのか分からないし、知ることもない。 |