index < 日誌 <z自意識< 「異質」p7/


 
2、疑惑。



見る・聞く・触れるといった感覚の感じ方、感じ方そのもの、感受性、センスといったもの。もっといえば、そうした感じ方の記憶とか考え方といったものも含めて、それがきわめて曖昧なのである。

それどころか、「これはいったい誰の感覚なのだ?」と、自分自身の感覚を疑うことだってあるのである。自分自身の感覚だといっても疑惑に満ちみちているのである。もともと自分の感覚にないような理解不能な感覚だって確かにあるのである。

だからまた、曖昧でそれが何かわけが分からず、確めることもできずに悩んでしまうのである。これはいったい何なのだ、こういうことを感じてしまう自分とはいったい誰なのだと、自分自身に対する底無しの猜疑心に悶絶するのである。

しかしまた、むしろそうした、疑う感覚がなければ社会が固定化していって、思考が停止して、なんの脈絡も筋道もなく、発展も後退もない、なんやら訳のわからない世界になってしまう。

なにもかもが、シキタリと常識に縛られたカースト社会のようになって、人間的な感情や感覚が省みられない社会になってしまう。なにもかもが管理された工場の中のように、無機質で死んだ社会になってしまう。


戻る。              続く。

index < 日誌 <z自意識< 「異質」p7/