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思い込みと偏見、そして生活習慣やライフスタイルが視覚の背景にあって、さらに、自分自身の利害関係や損得、もっと言えば、その時代の社会や権力がそれを求め、強制する場合すらある。イヤ、それこそが、社会や権力の本質と言える。 思い込み、信じ、求め、確信し、そしてそれが自分の信念となり、強固な意志や心情となる。自己を放棄した気弱な意志が、自分の都合に合わせて勝手に幻想を作り出して、それを現実と思い込むのである。その方が生きやすいし、ラクだから。言い換えると、頭脳がウソをつき続けるのである。 そうやって、自分自身と社会を偽り続けているといえば、言い過ぎである。それは偽りだろうけど、それが社会のキズナ(絆)であり、シキタリとなっているのだから。 それが私たち人間にとっての正義であり道徳であり常識なのである。公序良俗というものなのである。そうやって、みんなが生きているのである。そうやって世の中がうまく回っているのである。明日は知らない。しかし今、今日がそうやってうまく生きて行けるのである。 無いものが見えて来たり、有るものが見えない、見ていない、見ようともしない、見てはならないものとして避けている。だから見えないし、見えないはずなのである。黄色を赤く感じたり、少ないものが多くあるようにあるように思えても来るし、そのように思い出されてもくる。 特に印象的で象徴的なもの。それは同時に自分にとっての、自分の利害の印象と象徴であり、そうであって欲しいもの、そうでなければならず、そうであるはずの印象であり、象徴であり、そして、そのように感じられて来るし、見えても来るのである。 そして思いだされ、記憶に残る。記憶とは、何よりも自分の都合なのである。そしてこうしたことが、この「観念的・社会的映像」なのである。それは、思い込みと偏見の世界なのである。人間が生きている現実そのものが、このような条件付けられた世界なのである。 |
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