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それが、善いことか悪いことかというのは、どうでもよいことであって、問題にもならない。大事なことは、そうやってみんなが生きているのであって、そうやって社会が成り立っていて、維持され秩序が保たれているということなのである。 だから、これに疑いを抱いたり、これに反する考えや、それどころか、そうした感情や感じ方を持つということ自体が、もっともしてはいけないこと、あってはならないこと、あるいは、最も危険な存在と見なされるのである。 これが、社会にとっての唯一の正義なのであって、それが善いとか悪いとかというのは、どうでもよいことなのである。世の中のシキタリや習わし、常識といったものになんら疑いをいだかないこと、これが、その時代の社会にとって、唯一の安定と存続の保障なのである。 これは、目に見えない境界線、だれであってもけっして超えてはならない一線なのである。自分がその社会の中にとどまるのか、それともそこから出るのかという、超えてはならない限界線なのである。これがオキテとか暗黙の了解、あるいは人の道とか、ケジメとか、道徳と呼ばれているものなのである。法律もまたそうである。 だからみんなが、そして、目上(めうえ)の偉い人が、白でも黒といえば、黒となるのであり、少なくても多いと言えば、それが多いということになるのである。そして、それに疑惑をいだいたり、他の考えを持ち込むことは許されないのである。それは奇人・変人・異国人・異人種でしかないのである。それは、この社会の外の人間なのである。世の中に必要がないどころか、危険な存在として排除されるのである。 ありのまま言えば、こうしたことは日本の序列化し仲間化した、経済社会の「ケイレツ」システムを見れば、非常に理解がしやすいのではないだろうか。 |