index < 日誌 <ab女体< 「女の顔」p8/ |
それは、無いものを見ているか、それとも、有るものをねじ曲げて見ているかのどちらかである。そして、そうした思い込みが真実でありうるのは、自分の心の中にそれを見つけた場合である。 女の顔が象徴していたのは、実はホントは、自分の心の中にしか無いものだったのである。女の顔がそれを象徴し、印象し、見つけてくれたのである。女の顔を通して、僕は自分の心の中を見ていたのである。だから訳もわからず、いたたまれず、無視もできずに気になって仕方がなかったのである。 それとは、自分が信じて止まないもの、祈りや願いといったもの、そうしたものが女の中にあるとすれば、なにがなんでも、たとえ生死を賭けてでも確めなければならないものなのである。もちろん、そんなものがあるわけがないが、少しぐらいはあるかも知れないのである。 少しぐらいというのは、理屈とか考えとか言葉でもって、また、理性でもって理解できるものではないからである。Sexとは、自分の肉体で確かめるものなのである。肉体のなかで眠っているもの言わぬ、自分の肉体のリズムでもって確かめるものだからである。 それは、意識を無視した自己と他者との直接の交流であり、自分自身の感覚と肉体で確かめる行為なのである。相呼応して何かを見つめていて、確め、ひびき合っているのである。 それぞれのリズムが重なりあって、何か別のリズムを作り出して、それを見ているのである。そしてその中で、現実とは別の異質な自分を見ているのである。未知、異質、非日常、外の世界の自分を見ているのである。 |