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古代の神事や呪術で、祭司が自分自身の肉体を極限状態の麻痺と陶酔の中に没入していって、現実世界から隔離された純粋な感覚の世界の中で、神のお告げを聞こうとする。 それはそうやって、純粋な自己の肉体の中で、祖先の魂にたずねているのである。それは他人から、または自分の外から聞こえてくるものでも、あるいは誰かに教えられたり、知らされたり、押し付けられたりするものではなくて、自分の中で、純粋に自分の肉体の中から聞こえてくるものなのである。 聞こえもするし、感じられもするし、なにかのイメージや気配としても感じられてくる。それは衝動とか本能、あるいは人間の本性とでもいうべきもので、それが何かのキッカケでふっと外へ出てくるのである。 それは必然であって、出てゆくしかないのである。ちょうど闇の中を光が射すように、あるいは水の底から何かが浮かんできて映しだされるように。出るしかないのである。それが自分でもわかるし、感じられもするし、そうである以上、カタチあるものとして記憶に残しておかなければならないのである。カタチがなければ記憶として残らないのである。それはイメージであったり、声であったり、気配であったりもするが、なんでもよい、何かカタチとして記録し、記憶に残しておかなければならないものなのである。 それは、祖先の魂(たましい)の世界を見ているのであって、無意識の肉体の記憶が神のお告げとして、自分自身の肉体の中から聞こえてくるのである。それは祖先の魂が、自分の中で自分と交流して対話しているのである。もっと正確に言うと、肉体の純粋な感覚、自分自身の感覚の感覚として感じられてくるということなのである。感覚とは、祖先の記憶が肉体の機能として、現実のカタチになったものなのである。 |