index < 日誌 < as同一性< 「内的世界」p6/


 
6、座標系。



それは自分自身のすがたカタチの理由を求めているのである。そしてそれが現実に現れる場所を示しているのである。それは例えるならば、現実の世界の座標系であって、それを基準にして自分の居場所とカタチ、そしてその動き、さらにこの世界での自分の理由を求め、問いかけているのである。

座標系がなければ、世界の中での自分の位置を示すことが出来ない。自分がはたしてどこにいて、自分がだれなのか確かめようがないのである。しかもそれは、いつでもどこでも誰に対しても通用できる客観的な座標系でなければならず、そしてまた、自分と他者を含む座標系でもある。

気まぐれと思い込みの主観的な座標系ではなくて、他者をも含む共通の客観的な座標系でなければならないのである。そうやって、自分の居場所というのを確かめようとしているのである。

しかしまた、自分というのが他者を通して相対的に見えもするし、確かめられるというだけはダメで、絶対的に確かめられなければならない。主観的座標から客観的座標へ、そしてさらに、そこから普遍的・絶対的座標が求められ、そしてそれへと指向するのである。

それは歴史と異文化を越えたところにある、はてしのない永遠の願い、祈りのようなものであって、まるで神々の世界である。私たちが歴史と異文化に探し求めているのは、まさにこのことではないだろうか。

自分自身が見えてくる、あるいは、それが現れ出る場所といったものは歴史と異文化だけではない。自分自身の肉体の感覚の中にもそれを見ることが出来る。そして実は、これがもっとも重要で深刻である。なぜなら、自分自身が耐えられなくなるからである。

感覚は、自分の精神と肉体とが直結した世界であり、また、自分の肉体の中の世界だからである。そしてまた、それを通してしか歴史も異文化も見えて来ないからである。


戻る。             履歴へ

index < 日誌 < as同一性< 「内的世界」p6/