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自分が意識される場面というのは、 一つは、時間的な変化の記憶によるもの。自分の過去と現在の比較から自分が見えてきて、理解されてくるのである。もう一つは、自分の身体の感覚の感じ方の変化からも見えてくる。意識と感覚が切断されて対立し、それまでの意識では理解も認識もされないという場合である。 感覚が、自分にとって異質で未知のものをとらえていて、それをうまく表現できず、意識に正しく伝えることができないでいる、という場合である。そうした自分でも知らないことに遭遇した場合である。どうしたらよいのか分からず、とまどい、うろたえ、さ迷い、ためらっている状態である。 やがてその中から、この異質な未知を透(すか)かして、自分が、自分の中で映し出されてくるのである。それは、感じ方であり、個性であり、個人にとっての感性の問題なのである。何よりも大切な、自己の内的同一性(アイデンティティー)に根差したものなのである。 つまり、自分というのがどこかで分離・切断されていて、いやがうえにも自分を意識せざるを得ない状況に置かれている、ということなのである。こうしたことが、自分というのが意識される場面となっている。それはまた、自分が自分を発見する場面でもあって、自分が生きているということを実感する現場でもあるのである。それは自分の中で現れてくる。そして、何か自分にとって非常に意味あるものとして迫ってくるのである。 |