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ぼくは、視覚という自分の感覚の中で、いったい何を見ているのだろうか。それは、色や形(かたち)、模様などが見える世界であって、その中で人間は、つながりや規則、そして自分にとっての意味や「かかわり」といったものを見ているのである。 だからこそ、見えてもくるし、見なければならないし、そしてそれが何かと理解もされ、意識もされてくるのである。だからそれは他の感覚、たとえば触覚や聴覚に比べると、はるかに外面的で、間接的で、表面的である。表に現れた表面だけを見ているのであって、その内容とか中身が表面に遮(さえぎ)られて見えないのである。 触覚や、聴覚や嗅覚も、やはり視覚と同じく表面的ではあるが、それでも視覚と比べれば内面的・個性的である。外面的なカタチが見えにくいからである。その意味で、表現される内面というのが分かりやすいというか、表面上のカタチが見えにくいだけ、直接に内面へと向かってしまうのである。 そうした意味で触覚や聴覚は、より本質的で、内向的で、直感的と言える。何も見えないところで、それが何かを探り当てようとしているのである。そうせざるを得ないのである。 |
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